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COLLEGE OF INDUSTRIAL TECHNOLOGY 50th ANNIVERSARY思いつくままに耳元で急にわっーという叫び声がして、僕は宙に舞った。この日午後6時から関西鉄鋼短大のグラウンドで第1回青雲寮祭の前夜祭が行われ、化学助手....

COLLEGE OF INDUSTRIAL TECHNOLOGY 50th ANNIVERSARY思いつくままに耳元で急にわっーという叫び声がして、僕は宙に舞った。この日午後6時から関西鉄鋼短大のグラウンドで第1回青雲寮祭の前夜祭が行われ、化学助手の僕はキャンプファイヤーに招かれていて、生まれて初めての胴上げを味わったのである。胴上げというのはふあっと身体が浮いて実に気持ちのよいものである。その間は何も考えていなかった。わっしょい、わっしょい、と何べんかくるくると回ったのは覚えている。驚いたことには、すでに脱げてしまっていた僕の安物のゴム草履がきっちりとそろえてあって、そこへ僕をゆっくりとおろしてくれたことである。その時の感動と感触を今も昨日のことの様に覚えている。昭和37年11月17日(土)午後7時頃のことであった。当時の学生は全寮制でほとんどが、鉄鋼、金属関連企業の社員で僕は独身の29才で僕より年上の学生も居た。この大学は昭和37年の新設校のため、入学式は唯一完成していた工場棟で4月27日に行われた。この棟の南端が臨時の事務局で大型の工作機械の座っている部屋の隣でもあったが、まだ空室が多くそれらを使って講義、演習、教材の謄写版印刷などが行われ、講義の最中に隣の部屋で卓球が行われていたこともある。6月には電気鉄鋼棟が完成し、その16日(土)に引っ越しとなって、事務局はこの棟の一階西側に移され、講義室はその二階になった。その頃、倉庫代わりに使っていた工場棟の窓が壊されて扇風機が盗まれ、急遽、若手の男子教職員が2名ずつで宿直に当たることになった。この頃は深夜に大型工作機械や発電機などが到着することもあったが、宿直の夜長を身の上話やお国自慢で夜更かしをして寝坊することも多く、出勤して来た女子職員の大声で起こされて、戸を開けに行ったこともあった。この宿直の手当は一回500円であったが、バス代10円、週刊誌40円の頃で、4名の守衛さんが採用される10月末まで続いた。この教職員による宿直の影響は極めて大で、若手教職員間の親密度は大いに上がり、何事を行うにも互助共同の雰囲気が作られ、秋になって各棟が完成して教職員が離ればなれになっても、その親密度は少しも衰えなかった。学生も一期生は学生寮の完成するまでの半年間を宝塚の中山寺を宿泊所としたので、会社間のライバル意識も然り乍ら、一期生の連帯感は相当なものであったろうと推測している。この年は夏期休暇返上となったが、誰も不平を言うどころか準備に大わらわであった。秋になっても、他の実験の準備ができず、僕の担当の鉄鋼工学科の分析化学実験を週に二回やった。時間割では午後1時から三コマであったが、全寮制のため学生の中には実験の途中で寮の食堂へ食事に行き、いつのまにか戻って実験の続きをやっていた人もある。後には機械工学科や電気工学科の化学実験も行われた。学生委員として学生寮に泊まったことも多く、おかげさまで学生諸君と親密になり、40年以上経ったいまも沢山の年賀状を頂いている。水野謹吾(共通教育部)85