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17年前私が阪神・淡路大震災に見舞われたのは産業技術短期大学情報処理工学科の2年生の時でした。早朝、寝ているベッドから体が浮き上がる程の強い揺れが起こり、寝ているところをたたき起こされました。幸い家族は....

17年前私が阪神・淡路大震災に見舞われたのは産業技術短期大学情報処理工学科の2年生の時でした。早朝、寝ているベッドから体が浮き上がる程の強い揺れが起こり、寝ているところをたたき起こされました。幸い家族は無事でしたが、住んでいるマンションが倒壊は免れたものの、壁には大きな亀裂が入り、一部の柱は折れてしまいマンションが傾いていました。また、周辺の家屋は倒壊し、家の近くにある阪神高速道路は橋脚が折れ、高速道路の下にある国道43号線を塞いでいました。避難所の小学校には、老若男女様々な人が集まってきました。倒壊した家屋から這い出て屑や土埃が付いたまま避難してくる人、怪我をしている人、家族を亡くしてしまった人、そして亡くなってしまった人も。避難所では倒壊した家屋の廃材で暖をとり、毛布や食材などを持ち寄って肩を寄せ合い、強い余震におびえながら過ごしていました。学校のことなど考える余裕もなく、とにかくその日1日を過ごすということで精いっぱいでした。そんなある日のこと、まだ余震も続く中、産業技術短期大学の友達が瓦礫に埋まったデコボコ道を阪神甲子園から片道2時間以上かけて歩いて救援物資を持って来てくれました。あの時は本当にありがたかったし、何よりも嬉しかった。何とか短期大学は卒業できたものの、阪神間の多くの企業が被害を受け、インフラ整備もままならない中、就職先を探していた私に学校が声をかけてくださり、産業技術短期大学に就職することになりました。就職した後もまだ交通網も復旧しておらず、乗継・徒歩で通い、水道も家の中まで通っておらず、銭湯通いという状況が続きました。学校にも住んでいる所を失った女子学生が白塔会館に寝泊まりしていて、その学生のお世話も当時の私の仕事でした。あれから17年、同じく甚大な被害に見舞われた東日本についても1日も早い復興を願ってやみません。事務局福元小幸98