50th_pa

50th_pa page 97/130

電子ブックを開く

このページは 50th_pa の電子ブックに掲載されている97ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
思い出すままに昭和39年と云う年は忘れられない年です。当時は「関西鉄鋼短期大学」と云う名で呼ばれていました。ここでの生活がこの年の9月から始まりました。私にとってこの転職は生涯の大事件でした。少し横道に....

思い出すままに昭和39年と云う年は忘れられない年です。当時は「関西鉄鋼短期大学」と云う名で呼ばれていました。ここでの生活がこの年の9月から始まりました。私にとってこの転職は生涯の大事件でした。少し横道にそれます。戦争中海軍の技術士官として働いていた私は公職追放令に引っかかり(説明は省きます)、あらゆる公職から締め出されました。その上家が外地に在りましたので国内に引き揚げを余儀なくされ、正に踏んだり蹴ったりの状態でした。こんなところから戦後の生活が始りました。昭和23年に公職追放令は解け、高校の教員に採用されました。しかし本務に精出せば自分の勉強にはとても手が出せません。そんなとき卒業した教室の教授から話があり、応募して採用されたのが本学でした。これでやっと研究の時間が取れると思いました。昭和39年の夏のことでした。卒業して凡そできました。私の担当は機械科、鉄鋼科の物理学の講義と実験でした。後になって、溶接科が増えました。実を言えば私は不器用で実験の指導は心配したのですが、助手の先生が優秀な人で何とか職を全うすることができました。提出されたレポ-トには講評をしました。実験の後で開放された気分になるのか、この時間帯の学生は多弁で悪戯好きでした。あるとき講評を始めようとする私のテ-ブルの上に、写真が置いてありました。その写真には頭が写っていて、後頭部は髪がまばらでした。『誰だ、こんないたずらをするのは』と叱って、よくよく見ますと其れは私の頭でした。それまで私は自分の後頭部には関心がなかったのですが、やっと若くないんだと納得し一緒に呵呵大笑しました。今浦島の懐かしい思い出です。20年が過ぎていました。焦りが無かったと言えば嘘になります。天の采配と観念して新生活に立ち向いました。当時は年齢と共に体力が衰える等とは夢にも考えませんでした。近頃気力の衰えを感じ、こんな筈ではなかったがとの苦い思いを噛み締めています。9月からの講義は本館の2階の大教室だったと思います。私語をする学生もなく気持ちのよい授業が遠山正男(教養部)82