「秋のうた」
和歌の浦に しお満ち来れば 潟(かた)をなみ 葦辺(あしべ)をさして たずなきわたる
和歌の浦に潮が満ちてくると、干潟が徐々になくなってしまうので、鶴は葦の生えてる岸の方へと鳴きながら飛んでゆく。(万葉集 山部赤人)
秋来(き)ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
秋が来たとははっきりわからないのだけれども、吹く風の音でそれと気づかされる。(古今集 藤原敏行)
見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ
この海岸には、春の花、秋の紅葉のような趣のあるものは何もなく、漁師の仮小屋だけが目につく。わびしい秋の夕暮れだ。(新古今集 藤原定家)
心なき 身にもあわれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ(西行法師)
幾山河(いくやまかわ) 越えさりゆかば さびしさの はてなむ(ん)国ぞ 今日(きょう)も旅ゆく(若山牧水)
行(ゆ)く秋の 大和(やまと)の国の 薬師寺(やくしじ)の 塔(とう)の上なる 一片(ひとひら)の雲(佐々木信綱)
このように、我が国の和歌に現れる秋、はその清澄な空気、夕暮れの寂しさ、孤独なわびしさ、を景色にかさねて詠ったものが多く、やや感傷的である。杜甫と李白の漢詩を見てみよう。
「静夜思(せいやし)」 李白
牀前月光(しょうぜんげっこう)を看(み)る 疑(うたが)うらくは是(これ)地上(ちじょう)の霜(しも)かと
頭(こうべ)を挙(あ)げて山月(さんげつ)を望(のぞ)み 頭(こうべ)を低(た)れて故郷(こきょう)を思う
これは、李白(李太白)の悲愁の詩(五言絶句)である。 今は夜である。部屋の中の床(ベッド)の傍まで月の光がさしている。それは地に下りた霜のように白く輝いている。そして頭を上げては山月を見、うなだれては故郷を思って静かに物思いにふける。という意味である。豪放磊落で酒を愛した李白の最も著名な作のひとつである。
「新唐詩選」(岩波新書)で知られる吉川幸次郎先生は、李白と杜甫を比較して次のように述べています。"杜甫は何よりも人間に向かって誠実であることを願う。したがってその情熱を人間への誠実として傾ける。ところが李白の関心は、情熱そのものにある。いわば情熱そのものに対して誠実である。・・・杜甫は人々へのよき奉仕者であることを願い、李白は剛毅な人間の代表であることを願う。"と。杜甫の有名な七言絶句を次に挙げその解説を一部引用しつつ紹介しましょう。
「登高(とうこう)」 杜甫
風(かぜ)は急(きゅう)に天は高くして猿嘯(えんしょう)哀(かな)し 渚(なぎさ)は清く沙(すな)は白くして鳥の飛ぶこと廻(めぐ)る
無辺(むへん)の落木(らくぼく)は蕭蕭(しょうしょう)として下(お)ち 不尽(ふじん)の長江(ちょうこう)は滾滾(こんこん)として来(き)たる
万里(ばんり)秋を悲しみて常に客と作(な)り 百年(ひゃくねん)の多病(たへい)独(ひと)り台に登る
艱難(かんなん)苦(はなは)だ恨(うら)む繁霜(はんそう)の鬢(びん) 潦倒(ろうとう)新(あら)たに停(とど)む濁酒(だくしゅ)の盃(はい)
風は山上ゆえ、はげしく、そこから見る天はいよいよ高い。広大で空虚でただ真っ青な空間がいまや杜甫の眼前にあり、風が時々猿の鳴き声を運んでくるがいかにも哀しい。一方はるか下には揚子江の流れが見える。秋の渚は澄み、砂浜の色は目にしみるように白い。そして、その上を鳥が一匹旋回して飛んでいる。落葉樹は吹き付ける風に葉をさらわれ、それらは蕭蕭と音を立てて落ちる。又、長江(揚子江)は巨大な動脈のように大きくうごめきつつ、あとから後からと尽きせぬ波がこんこんと沸き立つように流れている。さて、思い起こせば故郷を去ること万里、自分はいつまでも客(たびびと)である。わが身にあるのは栄達・功名ではなく、多病であり孤独である。今日9月9日(旧暦)登高の節句にも独りでこの高台に登っているのである。自分の一生は艱難の連続であり、鬢の毛は繁き霜のごとくである。老いはすでにわが身を支配しており、恨めしくてたまらない。自分は何か投げやりな気持ちにならざるを得ぬ。特に新たに医者から酒を禁じられたため、いっそうそういう気持ちになっている。山上の高楼から、晩秋の世界を俯瞰する壮大な景観の中の感懐が、長年にわたって抱いてきた憂いと共鳴して苦悶する杜甫の言葉は悲壮であり、豪快を極める、といっていいと思います。この詩を全ての漢詩の中の最高傑作であると褒め称える人もいます。
現代の中・高校生諸君が漢文を習う機会は非常に稀(まれ)になっています。一方、漢詩や論語などの解説書、翻訳書は多く出版されるようになりました。部分的ではあっても、是非にもそれらに触れて学ぶことをおすすめします。
2011年11月15日
