「孟子」(もうし) と 「荀子」(じゅんし)
惻隠(そくいん)の心(こころ)は、仁(じん)の端(たん)なり 孟子
孟子の有名な言葉です。この言葉は、次のような「孟子の性善説」としていつも引用される文章の中にあります。 "人には皆、人に忍(しの)びざるの心あり。今、人の乍(たちま)ち孺子(じゅし)の将(まさ)に井(せい)に入(い)らんとするを見るや、皆(みな)怵愓惻隠(じゅってき・そくいん)の心あり。・・・・・・・惻隠の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。" なかなか難しい言葉ですが、これを適当に意訳しますと次のようになるだろうと思います。「人には皆、人に忍びないと思う心がある。今、どんな人でも、幼児が井戸に落ちそうになったとき、はっとして惻隠の心を起こして手を出して助けないものはいない。・・・・・このことから考えてみると、惻隠の心がないものは、人ではない。つまり、人はみなそのような惻隠、すなわち、あわれみの心をもっていて、それが正しい人の道、"仁"の芽生えであり、ひいては人間の本性は善なのだということになるのです」。
孟子は、人間の生まれながらの性質は善なのだからこれを守り育てることによって、善なる社会が実現すると考えました。 これに対して、有名な性悪説を唱えた荀子は、孟子と同じく孔子の流れをくむ人ですが、孟子に真っ向から反対して、人間の性は悪であり、
人の性は悪にして、その善なるものは偽なり 荀子
と述べています。荀子は、人は生まれつき自分の利益を追求し、他人を嫉んだり憎んだりする性質を持っている。したがってそのままにすると、争いや奪い合いが起り、世の中は混乱する。だから教育や修養によってこの悪い性質を正しい人の道を行なうように鍛える必要がある。というように考えました。いずれの説も、生まれながらの性質をそのままに放って置くのではなく正しい人の道を教えて教化するということが大切だという点では一致しています。
西洋の哲学者たちの中にも性善説にたつ人と、性悪説に立つ人がおります。たとえば、プラトンは前者に近いでしょうし、アリストテレスは後者に立脚しているように思われます。現代の資本主義社会に住む我々にとっては、自分の利益を追求することが当たり前で、その意味では性悪説に基づく荀子の論理の方が説得力があるようにも思われます。 例えば、人は自分の利益を考えて行動するときに最大の力を発揮する、だからなるべく規制をしないで、働けば働くほど儲かるようにしておけば、その行為がまるで「見えざる手」に導かれるがごとくに公共の利益に貢献するという、アダム・スミス(経済学の父といわれる)の「国富論」の考え方は性悪説に基づく考え方であると思いますが、現代の主要国の経済が基本的にはこのアダム・スミスに基礎を置いて運営されていることを考えれば、荀子の性悪説に基づく種々の箴言も実に現代的な意味をもっていると言わなければなりません。(了)